【鹿児島】8.6水害を耐え抜いた石橋が展示されている「石橋記念公園」

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甲突川の五石橋

鹿児島市を横断するように流れる甲突川。

この川にはかつて、岩永三五郎という石工によって造られた玉江橋新上(しんかん)西田橋高麗橋武之橋の5つの石橋があったそうです。

これらはまとめて「甲突川五石橋」と呼ばれ、江戸時代に建設されて以降、数多くの人々に利用されてきましたが、平成5(1993)年に発生した集中豪雨(8.6水害)の影響で甲突川が氾濫した際、新上橋・武之橋の2橋は残念ながら流失してしまいました。

流失を免れた3つの橋は、のちに甲突川から離れた安全な場所に移設され、保存されているとのこと。

今日は、その残った橋たちが保存されている「石橋記念公園」にお邪魔します。

西田橋

公園の駐車場を抜けると、真っ先に見えてくるのが「西田橋」

4連アーチの石橋です。近くで見るとかなり大きい。

西田橋の欄干には玉ねぎのような形の装飾「擬宝珠(ぎぼし)」が施されており、この橋に対する手の込みようが窺えます。

その先には立派な門がありまして、こちらは「西田橋御門」と呼ばれていたのだそう。

ここでは番所が設けられ、明け六つ(午前6時)に開門してから暮れ六つ(午後6時)に閉門するまでの間、武士や旅人などが通行のために改めを受けていたんですって!

西田橋の出来事
江戸時代初期木造橋として西田橋完成
安永元(1772)年御門が建立される
弘化3(1846)年甲突川改修と併せて石橋へ架け替えが行われる
明治5(1872)年西南戦争により御門が焼失
昭和28(1953)年鹿児島県の有形文化財に指定される
平成5(1993)年8月8.6水害発生、甲突川氾濫
平成12(2000)年石橋記念公園に移設
※御門もこの時期に復元される

高麗橋

西田橋御門を抜けて祇園之洲公園に入ると、「高麗橋」が見えてきました。

西田橋と比べるとやや素朴な印象を受けますが、それでもどっしりと構えたその姿はどこか威厳を覚えます。

高麗橋の出来事
弘化4(1847)年高麗橋完成
大正3(1914)年桜島の大正大噴火発生、橋に亀裂の記録あり
平成5(1993)年8月8.6水害発生、甲突川氾濫
平成11(1999)年石橋記念公園に移設される

玉江橋

高麗橋を過ぎてまたしばらく歩くと、3つ目の橋「玉江橋」が見えてきます。

先ほどの2橋と比べると、道幅はけっこう狭め。

玉江橋の出来事
嘉永2(1849)年玉江橋完成
平成5(1993)年8月8.6水害発生、甲突川氾濫
平成11(1999)年石橋記念公園に移設される

武之橋・新上橋(流失)

国土地理院|空中写真(1975年2月撮影)を編集・引用
国土地理院|空中写真(1975年1月撮影)を編集・引用

現存はしていないのですけど、せっかくなので「武之橋」「新上橋」にもさらっと触れておきましょう。

この2つの橋は残念ながら8.6水害で流失してしまいましたが、武之橋は甲突川五石橋の中では最も長い5連アーチ橋で、新上橋もまた、流失するまで車道として現役であり続けた橋でした。

武之橋・新上橋の出来事
弘化2(1845)年新上橋完成
嘉永元(1848)年武之橋完成
平成5(1993)年8月8.6水害発生、甲突川氾濫により2橋とも流失

慰霊塔と記念碑

高麗橋・玉江橋のある祇園之洲公園には、慰霊塔や記念碑が建立されています。
最後にそれを紹介して、この記事を締めたいと思います。

西南の役官軍戦没者慰霊塔

こちらは西田橋御門を抜け、高麗橋に行く手前にある「西南の役官軍戦没者慰霊塔」

明治10(1877)年に起こった西郷隆盛率いる旧薩摩藩の士族(薩軍)と新政府軍によるこの戦いは日本最後の内戦ともいわれ、7ヶ月の間に戦死者は薩軍側で約6,400人、新政府軍側で約6,840人、合わせて13,240人にも上ったと言われています。

塔は「悲」「苦」「悶」を表す3像の上に「和」の像が据えられていて、生死の苦しみを離れ安らぎを得ることを意味し、「和」像の背中には新時代に芽吹く新樹を象徴しているのだそう。

薩英戦争記念碑

もう一つは、薩摩藩とイギリス帝国による戦争の「薩英戦争記念碑」

この戦争が起こる一年前、現在の神奈川県で薩摩藩の行列に遭遇したイギリス人たちが下馬してよけなかったことから藩士に斬られる事件が起こりました(生麦事件)。

この事件を受けたイギリスは、幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを、薩摩藩には犯人の処罰と賠償金2万5000ポンドを要求しました。

さもなくば日本との戦争も辞さないぞ…と。

▲ 薩英戦争で使われた祇園之洲砲台の跡

その後、幕府は賠償金の支払いに応じましたが、薩摩藩はイギリス側が直談判に乗り出しても頑なに賠償金の支払いを拒んだことで、文久3(1863)年8月15日、ついに薩英戦争が起こってしまいました。

イギリス艦隊が撤退するまでの2日間で、薩摩藩側は死傷者13名に加え城下の街が被害を受けイギリス側は死傷者63名に加え戦艦3隻を大破または中波させられており、実質痛み分けとなりました。

その後、互いの実力を評価した薩摩藩とイギリスは、一気に関係を深めていくこととなります。

今日のあとがき

スウ

西田橋の近くには「石橋記念館」という展示館がありました!
入館料が無料だったので試しに入ってみましたが、精巧なジオラマやいろんな展示物があってなかなか面白かったです。

スポット情報

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この記事を書いた猫

九州地方に住むケモノ。
愛車でドライブを楽しむかたわら、2022年より観光スポット紹介と旅行記を兼ねたブログ「けものたび」を開設。

2022年:本土最南端「佐多岬」到達
2023年:日本最低峰の一つ「天保山」制覇

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