日本で初めて戦いに鉄砲が用いられた場所を訪ねてみた「黒川岬展望公園」

「日本で初めて鉄砲が用いられた戦いは何か?」と訊かれたら、おそらく多くの人は長篠の戦い(1575年)と答えるだろう。

僕もきっとそう答えるだろうし、学校の授業でもそういう風な意味合いで教えられたことと思う。

しかし、調べてみたところ長篠の戦いはあくまで“鉄砲を大々的に用いた戦い”なのだそう。

“日本で初めて鉄砲が用いられた戦い”は、諸説あるものの鹿児島県姶良(あいら)市の黒川岬」で起こった「黒川崎合戦」とされている。

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黒川岬へ

戦いの起こった岬周辺は、黒川岬展望公園として整備されている。

2019年に市が整備したもので、園内に設けられた展望台は出来立てほやほやな雰囲気だった。

展望台の階段を登ると、公園とその隣を流れる日木山川が一望できる。

ちょうど満潮の時間らしく、川は逆流中。

黒川崎合戦について

それでは、日本初の鉄砲が用いられた戦いについて説明しよう。

天文18(1549)年6月、この地は島津氏と肝付氏との間で激しい戦いが繰り広げられていた。

姶良市の広報誌にこのような記述がある。

加治木は、島津氏が統治する以前は肝付氏の領地で、本格的な三州統一に乗り出す島津氏は大隅攻略のため肝付氏とこの地で激突。島津家家臣の伊集院氏が陣を構え、肝付氏は川の向かい側に陣取り「黒川崎合戦」が繰り広げられました。

実はこの合戦こそ、鉄砲が初めて戦闘で登場した場所であったといわれています。その戦の様子を『貴久公御譜(たかひさこうごふ)』には「而日日飛羽箭、發鐵炮、經數月驚人之耳目」(連日矢が飛び交い、鉄砲を発したので、数か月人々の耳や目を驚かせた)と記されています。

広報あいら Airaview第198号(令和元年8月15日発行)より引用

これこそが、黒川岬が日本で初めて鉄砲を用いた戦いが起こった場所といわれる所以なのだ。

“錦江湾”発祥の地?

鹿児島では親しみを込めて錦江(きんこう)湾呼ばれることの多い鹿児島湾。

あまりにその名が浸透しすぎて、テレビで「鹿児島湾」と言われると違和感が生まれるぐらいだが、錦江湾と呼ばれるようになった由来はこの句にある。

浪のおり かくる錦は 磯山の 梢にさらす 花の色かな
薩摩藩初代藩主 島津家久(黒川記より)

黒川崎合戦から約250年後の享和元(1801)年、島津久徴(ひさなる)は黒川記にて錦江の由来は島津家久の句から由来すると記した。

それでも、この時代において“錦江”という名は日木山川河口付近を指す言葉でしかなかったが、時が経つにつれその範囲は広がっていったという。

大正時代の新聞には錦江湾の名が鹿児島湾と併記されるようになり、昭和30(1955)年には鹿児島湾全体が「錦江湾国定公園」(現:霧島錦江湾国立公園)として指定された。

このような経緯から、錦江湾という名前が定着したといわれている。

今日のあとがき

スウ

公園には階段で海へ降りられる場所もありました。
ただ、この時は波がザッパンザッパン打ち付けていたのでちょっと怖かったです…。

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この記事を書いた猫

九州地方に住むケモノ。
愛車でドライブを楽しむかたわら、2022年より観光スポット紹介と旅行記を兼ねたブログ「けものたび」を開設。

2022年:本土最南端「佐多岬」到達
2023年:日本最低峰の一つ「天保山」制覇

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